(人間にとって幸せ(well-being)とはなんだろうか その2はこちらです。)

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前回のエッセーでは、六本木のミッドタウンのショーウィンドウにワンちゃんのレインコートが飾られていたのをみて、オシャレな洋服を着たワンちゃんは、飼い主の方が思うほどには幸せでないのではないかと記しました。

その理由は、ワンちゃんはレインコートを着たくて着ているのではないだろうと考えたからです。毛深い犬もいます。首だって腹にだって、そして顔にだって毛が生えています。全身を覆う毛皮のコートを、年がら年中着ているようなものだろうと思います。

その上にこのようなレインコートを着ていては、蒸し暑いのではないかと思いました(実際のところは、犬は生理学的にはあまり汗をかかないようなので、蒸し暑くて汗だくだくになることはないようですが・・)。そのレインコートにはフードもついていました。ワンちゃんにとって、フードは邪魔と感じることもあるのではないかとも思いました。

私が子ども時代に田舎で飼っていた犬は、衣食住は足りていなかったのですが、夏などにホースで水をかけて上げると、身体をブルブル振って飛び回って喜んでいました。

そこから次のようにことを連想しました。それは、現代人は必要以上に(あるいは不自然に)余計な物や考えを身につけて苦しんでいるのではないかということです。幸せになりたいのは、子ども自身であるのに、親が自分自身の考える幸せを押し付けていることはないだろうかとも考えました。その結果として、自己が自然に求める幸せのあり方が見えなくなってしまうこともあるだろうと思います。

これは、“あるがまま”の自分が見えてなくなっているということです。何か違うなと感じつつ、押し付けられたものを幸せのエッセンスだと思い込んでしまうことでもあります。それは、他人が考えるシアワセのシワヨセをくっているだけのことです。

このことを、臨床心理士である私自身にひきつけて考えるならば、心理相談をしているときに、その相談活動自体が来談者の方への、新たな押し付けにならないことに留意しなくてはならないということになります。

最近、認知行動療法(CBT)は、一種の流行りになってきています。だからこそ、認知行動療法が余計な飾り物にならずに、来談者の方自身にとっての幸せとは何かを考える方法となっていかなければならないと肝に銘じたいと思っています。

H.S.