紫陽花が美しかった頃でした。確か本エッセーの原稿執筆の期限は、その頃でした。

 5月の連休も終わった頃には、既に原稿を書かなければと考え初めていました。今回は雨に濡れた紫陽花の風情を題材にして何か書けないものかと想を練った記憶があります。日本風の認知行動療法による行動変容は、明るい太陽の下の向日葵のように分かりやすいものであってはならない。梅雨寒の中、曇天の下の路地裏で目立たずに咲く紫陽花のように、でしゃばることなく、周囲と調和した在り方でなければならない。そんな、一見含蓄に富んだ、しかし実際には単なるメルヘンでしかないような内容をしきりに考えていました。

 しかし、いざパソコンに向かって文章を書きだそうとすると先に進めませんでした。なぜか、エッセーを書こうとすると気持ちが逸れて、TVを観てしまう自分がいました。「なぜ、こんなところに日本人妻が!」といった遠く異国の地で生活する日本人をテーマとした番組に釘付けになっている自分がいました。エッセーを書く気持ちはありました。むしろ、毎日、何を書こうかと思い悩んでいたといったほうが正しいかもしれません。いつかは読者の皆さんにインパクトを与える最高傑作を書くぞと思いつつ毎日を過ごしていました。

 ところが、ふと気が付くと、何と紫陽花は既に枯れ始めていました。今年は、梅雨らしい梅雨がなかったのです。予想外に早い夏空が窓の外に広がっていました。そして、この原稿の締め切りも過ぎていました。嗚呼何て自分はバカなのだろうと後悔が始まりました。何故こんなことになったのかと考えました。

 そして、書くことを回避していた自分がいたことに気づきました。自分で勝手な想像をするのは楽しかったのです。しかし、それを文章にして世の中に示すことに直面する勇気が必要でした。読者を驚かす、素晴らしいエッセーを書くぞという、身の程知らずの完璧主義がさらに問題をこじらせました。完璧ではない自分の文章に直面するのを避けて、先送りをしていたのです。しかも、先送りすれば、一時的には稚拙な文章能力という現実に直面せずにホッとした時間を過ごすこともできました。それは、ある意味で快楽でした。しかし、長期的にみるならば、題材になるはずの紫陽花は枯れてしまい、締め切り期限も越えて途方に暮れて落ち込む事態になってしまいました。

 認知行動療法の変容で目指すものは、「でしゃばることなく、周囲と調和した在り方」ではなく、「回避せずに、現実をあるがままに受け入れ、少しずつでも直面してく在り方」であることを、身をもって知った今日この頃です。

(H.S)