東日本大震災の支援の経験から思うこと(2)
日本人は、地震や津波以外にも火山の爆発や台風など、古代より多くの自然災害にみまわれ、心の傷を負ってきた。しかし、つい最近までは、カウンセラーなどという専門家はいなかった。それでも人々は、生き抜いてきた。どのようにして、その苦しみを乗り越えてきたのだろうか。
おそらく地域で互いに支え合い、生き延びてきたのだろう。そして、その地域のまとまりの中心にあったのが宗教であったと思う。集落の中心には必ず神社、寺院、教会などがあった。自然の脅威に直面しながらも、生きていることの“有り難さ”を感じ、助け合い、地域のつながりを育てることができたのは、復興に向けて人々が心を合わせて“祈る”宗教がそこにあったからであろう。再生に向かうためには、個人の計らいを超えて身を委ねることのできる大きな存在が必要なのだと思う。
そのように考えるとき、謙虚になることの大切さに気付かされる。私たちは、経済的に豊かになり、お金さえあれば一人で生きていけると思っていなかっただろうか。科学の力によって自然をコントロールできると思っていなかっただろうか。さらには、自分の人生、さらには子どもの人生も自分の思い通りにコントロールできると思ってなかっただろうか。改めて私たちは、自分のあり方を見直す時期がきているように思う。
経済的になに不自由なく育った現代日本社会の子どもや若者の多くは、生きていることの“有り難さ”を感じることができなくなっている。いつも他人の視線に怯え、引きこもる若者がいる。虐めを経験して、人間不信に陥っている若者も少なくない。
食べることができなくなったり、自分で自分の体を傷つけたり、麻薬や性的関係に依存していく若者も多い。彼らは、生命や愛情の意味がわからず、それを確かめようとして必死にもがいている。カウンセラーとして、このような現実に向き合う時、人間にとって“恵み”とは何なのかと改めて思う。
人は、厳しい自然や貧しさに直面することを通して生きていることの有り難さや祈る心を学ぶ。しかし、上述のような子どもや若者は、そのような経験ができない。むしろ、豊かで安全な社会にいながら、自分を見失っている。生きようとする欲求さえも見失い、自分のために祈ることもできない。多くの子どもや若者が、生きていることの“恵み”を享受できていないことが残念でならない。
大震災によって厳しい自然に直面した被災地のさらなる復興を祈りながら、日本社会のもう一つの厳しい現実を肌で感じ、改めて謙虚に生きることの大切さを痛感している。必死で生きようとしている子どもや若者の生命の力を信じ、彼(女)たちが、生きていること自体の“恵み”を感じられるような環境を作っていくことが大人の責務であると思う。